良かれと思ったパワポが会議を壊していた件 | amazonのすごい会議 #65

 企業で働いていると、「これ無駄だよな…」と思うことが結構ある。それの代表例が会議である。定例会議とか、なんたらワーキンググループとか、とにかくルーティン多いのだ。それらは単発で見れば、週の中で取られる時間というのはさほど多くない。しかしサブスクと一緒で、気がつけばチリツモで拘束時間が増えている(ひどいときは終日別々の定例でがんじがらめになるときがある)。最近では今まで1時間単位だった会議を、ト○タを意識してか30分にするという動きもある。それ自体はとてもいいことだ。しかしそうなったとしても、「何が結論になったんだ?」とあとから疑問に思ってしまうような、中身のない会議は依然として存在するのだ。
 …と愚痴を言いたいところは山々なのだが、悲しいかな、自分がファシリをやると同じことが起こってしまう。最初はファシリとして進行をしていても、いつの間にか参加者たちは自分のファシリをはなれて暴走しているのだ(それでいつもタイムオーバーになる)。形骸化してしまっているのに積み重なる会議体をどうしたら良いのだろうか。正直amazonと自分の職場とでは組織で見てもギャップがありすぎると思っているが(とか言ったら怒られるのだろうか…)、もしかしたら使えるヒントがあるかもしれないと思って本書を手にした。

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本記事のサマリー:

  • 会議資料は箇条書きよりナレーティブ重視
  • amazonの最短会議は15分で承認!?
  • 会議体の変化に関しては、コロナが良い結果を生み出したかもね

読んだ本

  • タイトル:amazonのすごい会議
  • 著者:佐藤 将之
  • 出版社:東洋経済新聞社

感想あれこれ

「パワーポイント」に「箇条書き」はNG!?

 本書では基本的に我々の(というか自社の)慣習や常識がことごとく覆されている。読み手は自分の勤めている企業の会議体に照らし合わせて考えると分かりやすいと思うが、amazonで行われる会議とのギャップに驚かされるばかりである。その中でも一番「えっ?」となったのが、パワポに箇条書きはご法度ということだ。元来自分はパワポ内で箇条書きで表現するのは、良かれと思ってやっていたことである。見やすいし、読み手にとっても理解しやすいと思っていたのだ。なんなら箇条書きでうまくまとめられた時は「良い資料ができた」と思ったほどだ。しかしこれが間違いだった。amazonで使われる資料では箇条書きではなく、できるだけナレーティブに書くことが求められる。その最大の理由は、行間に込められた意味を取りこぼすリスクを避けるためなのだ。これには自分も思い当たる節がある。前述のとおり、資料を箇条書きで整理すると自分の考えがうまくまとめられた気分になる。一方でそれをベースにいざ話すときになると、いろいろとすっ飛ばして内容を説明してしまうことが多い。仮にうまく伝えられたとしても、聞き手側としては資料に載っていない内容は会議が終わっているころには忘れてしまっているかもしれない。それならば、多少長くなろうがナレーティブに書いて、しっかりと意味を伝える方が良いように思える。すべての会議に通用するわけではないだろうが、「こういうまとめかたもあるのだ」という考え方を取り入れることができたことはとても良かった。

「一言もしゃべらない」会議が最高の会議!?

 パワポに箇条書きはNGのルールと同じくらい意外に感じたのが、「amazonで考えられる最高の会議は、沈黙のままに終わる会議」であるということ。amazonの会議では、会議資料について説明する代わりに、冒頭で15分間だけ会議資料を読む時間が与えられる。その後ファシリテータが「何か疑問があったか?」と聞いて、それをトリガーとして議論に入る。裏を返せば疑問点を尋ねて、そこで何もなければそこで承認されて即試合終了。最速15分くらいで会議が終了するということだ。なんて素晴らしいことなんだろうか!
 この点を踏まえて自分のケースを振り返ってみると、改善の余地がまだまだありそうだということに気づく。自分の周りで実施される会議でよく見かけるのが、冒頭の資料説明がとても長いケースだ。発表者がとても気合を入れて資料を作っていることも相まって、会議時間の大半は資料の説明に割く。ひどい時は1時間の会議のうち、50分程度を説明に費やしてそこから質疑応答開始、ということだってある。発表者の中には、「資料説明で会議の大部分をかっさらって質疑を短くし、炎上リスクを抑えているのだ」と割り切っている猛者もいる。だが、それでは発表者も聞き手も説明だけで疲弊してしまい、建設的な議論をするのは難しいだろう。場合によってはマネージャ層も、さらに上部の経営層の貴重な時間をもらって開催される会議もあるのだ。資料の把握は15分で終わるならばパッと終わらせて、貴重なディスカッションに時間を割きたいものだ。もっとツッコむと、会議資料は前日までに参加予定者全員に対して毎回配布しているのである。しかし当日の参加者で事前配布資料に目を通してくる人間は、実際はほんの一握り。中には忙しい人間もたくさんいるのだろうが、参加者が皆事前に資料を読み込んで来てくれさえすれば、冒頭の沈黙15分すらいらないんじゃないか…?と思う。

コロナ前後の会議のあり方

 振り返ればもう数年前のことになるが、当時のコロナウイルスのインパクトはとても大きかった。プライベートはおろか、仕事でも思うままに外出することができなくなっていまい、みな働き方を多少なりとも変えざるをえなくなってしまった。世界中の人々の健康に被害を与え、死者も多数出してしまったコロナウイルスは基本忌むべき存在であることは間違いない。しかし働き方という部分のみにフォーカスすると、良い変化も少しはあったのではないかと思う。
 ひとつはリモートワークの存在だ。「自社は基本的にハードウェアの会社だから…」という理由で出社が大前提だったのだが、コロナ禍でリモートワークがとてつもなく加速した。当時は実機を触ることができない分だけ開発日程にも影響を与えたが、従業員はかえってメリハリをつけて働くようになった。コロナ禍がほぼ収束して出社が普通にできるようになった今では、柔軟に働く選択肢のひとつとして、リモートワークのスタイルは大いに歓迎されているままである。語弊を恐れず言えば、コロナウイルスのおかげで新たな働き方の選択肢を持てたのである。もうひとつは当時のリモートワークの加速に伴って、無駄な会議が半減したということだ。「不要不急の外出を控える」のと同じマインドで、不要不急の会議はできるだけ実施を避けるという方針が根付いたのである(リモートならともかく、出社した際に顔を合わせるのはウィルス感染のリスクが高まるからである)。結果的に、従業員は今まで会議に割いていた時間が浮いて、自身のタスクにより集中できるようになった。思い切って会議をバッサリと省いて振り返ったあとで、「ああ、あの会議は正直いらなかったんだな」と、みな気づいたのである。
 コロナ禍によって働き方が変わり、会議のあり方も一部ポジティブな方に向かったこと自体は良いことだし、歓迎されるべきことだ。裏を返すと、コロナ禍のような非常に強い負のインパクトがない限り変わらなかったのかと思うと、我々が持つ会議の慣習の根深さを実感して悲しくなる。そしてもうひとつ大事なのは、本書でも著者が主張している通り、一度淘汰されたムダな会議をコロナ収束後も復活させてはならない、ということだ。せっかく大きな外的要因を受けて会議体を見直して今に至るのだから、以前の非効率的な状態に戻すのは非常にもったいないことである。…と思いながら現状を見てみると、さっそく元の状態にもどりつつある気がする。喉元すぎれば熱さを忘れるで、またコロナのようなインパクトがこないとみな思い出さないのだろうかと思うと、これまた人間の闇を見るようでモヤモヤするのである。

終わりに

 amazonの会議の中身を見てみるととても画期的であり、「ぜひうちも」と実践してみたくなる。一方でそれらが実践できるのは、卓越したスキルを持つ超人たちが集うamazonだけなのでは、との考えはなかなか変わらない。amazonの会議体をそっくりそのまま適用できなくとも、「どこかこの会議を最適化できるところはないか」という意識はいつでも持っておきたいものである。


それでは、また。

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