自分を「参考資料」で埋め尽くさぬように | ミスをしない選手 #53

 自分は野球をほぼやったことがないし、見ることもあまりないのだが、関西にいると野球ファンの熱にあてられることが多々ある。飲み会でうっかり「推しの球団なんてないです」とか漏らそうものなら「そんなもん阪神に決まっとるやろ!!」と半ば怒鳴られる始末。

そんな熱狂ファンが社内にいたのが幸い(?)して本書に出会ったのは社内における回覧だった。大変恥ずかしながらプロ野球界隈は俄なもので、本書に出会わなければ鳥谷敬という選手を知る由もなかった。

だがこれもなにかの縁であるし、タイトルにもそこそこ惹かれたので読み進めてみることにした。これがなかなか良かった。野球に対するアツさと、彼がプロ野球人生の中で得たノウハウが大いに詰め込まれている良コンテンツである。

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本記事のサマリー:

  • スキルの棚卸しは、意外とおろそかにしがち
  • 弱い自分を認めるのは容易じゃない
  • 他人の正解はあくまで「参考」に留める

読んだ本

  • タイトル:ミスをしない選手
  • 著者:鳥谷敬

感想云々

「できる/できない」をしっかり見極める

 スポーツでも他のスキル習得でもそうなのだが、「やりたい」「できるようになりたい」ということは事あるごとに沢山列挙しがちだろう。そのこと自体は悪いことではない。一方で「自分は何ができて、何ができないのか」という、自分の現在地を把握するための棚卸って、意外とおろそかにしてしまっているなと思う。

自分のレベルアップには、まず自分の実力を正確に見極めて、目標との差を明確にする必要がある。ところがその見極めを怠ってしまうことで、不透明なままの謎のギャップに苦しむ人が後を絶たない気がしているのだ。たとえ目標とのギャップが大きかったとしても、「そのギャップを埋めるのに何をすべきか」がはっきりとしていれば、これほど安心なことは無いだろう。

自分が「下手くそ」だという自覚を持つ

 前述した内容につながることだが、自分の現在地をありのまま受け入れるというのは大事なことだなとつくづく思う。自分の現在値を正確に見極めた上で、例えそれがあまりにも周りと劣っていたとしても、である。

確かに自分が劣っていると自覚することは悲しいことかも知れない。だが恐らく、いつまでも自分の現在値がはっきりしないまま、埋まらないギャップに振り回されることの方が数倍つらいだろう。

自分の弱さを恥じず、胸を張って認めること。これは以前読んだ岡本太郎氏の著書「自分の中に毒を持て」でも同じようなメッセージとして記されていた。

プロ野球選手と芸術家というまったく違うキャリアでありながら、共通して発信されているこのメッセージは、自分の中でより説得力が増した。

他人の正解を鵜呑みにしない

 スポーツで憧れの選手がいたりすると、自身も彼らの真似をしたくなる。そしていつの間にか自身のプレースタイルの理想像も彼らのそれに重ね合わせてしまうのだ。というか、スポーツ以外でも同じようなことが起こるだろう。自分の場合は囲碁がその例だった。憧れの棋士がいたら、彼らの戦術やトレンドの布石を真似しようとしたものだ。

だが、鳥谷氏は真似事ばかりしていると大火傷することを良く知っている。体格も精神も背景も異なっている人が任意の人物を真似したところで、再現できるはずがないということを生涯のプロ野球人生で学んでいるのだ。だからこそ、鳥谷氏の「他人の正解は参考資料」というメッセージは自分にとても刺さった。

自分が前向きな状態で他人の参考資料を取り入れている状態ならまだいい。だが、自分がうまくいってなかったり、追い込まれている状態では、自分の中で占める参考資料の割合というのは、膨大に増えていくだろう。本人としては現状を打破したいあまり、藁にもすがる思いで他人の正解をかき集めようとするからである。そしていつしか、それらを参考資料ではなくバイブルのように崇め奉り始めてしまうのである。

でも前述の通り、他人の正解の示すままに進んでみたところで、その先には違う結果(場合によっては良くない結果)が待ち受けている。自分が逆境に立たされている時の他人の正解はどんなに危険なものか、改めて認識しなければなるまい。

終わりに

生きていると、誰しも自分の通ってきた道をどうしても肯定したくなる。これはもはや人間が持つ性質と言ってもいい気がする(というか、肯定しないとやってられないし…)。だが自分のスタイルを確立するには、ノイズとなる他人の正解にはできるだけ線引きすることが必要だ。

決して簡単にできることではないけど、「あくまで参考資料」というフレーズはいつもこころに留めておきたいものである。


それでは。

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