白い巨塔とかチーム・バチスタの栄光とか医龍とか、昔から自分はどうしても医療モノの小説・ドラマに惹かれる節がある。その中でも原作を読み返したり、ドラマを何度も見返したりするのはやはり白い巨塔である。唐沢寿明版が好きすぎてアメイジング・グレイスのサントラを買ってしまったし、なんなら一時期は財前vs菊川の教授選をご飯のおかずにヘビロテしていたこともある。
そんな好きも相まって医療系小説の金字塔は白い巨塔だと思っており、もう自分の中でこれを超える作品には出会えないだろうなと考えていた。ところがこの「孤高のメス」は個人的に白い巨塔に勝るとも劣らない作品であった。
単行本だと全6巻という構成で、ボリュームで言えば白い巨塔と同程度であろうか。ふらっと読み始めたつもりが気がつけばドハマリし、最終巻まで突っ走ってしまった。

本記事のサマリー:
- 主人公の周りにクズが多い…これってあるあるだよね
- 作中はオペのシーンモリモリで最高
- 「医学」と「医療」は混同すべきではない。でも、それって多分今だけ
読んだ本
- タイトル:孤高のメス
- 著者:大鐘稔彦
感想云々
医療小説の中での「対比」
作中に登場する主人公(なぜか外科が多い)が才能に溢れていて、ずば抜けた執刀の技術を持っているのは医療小説あるあるだと思う。かつ、そんな主人公の周りには富・名声・力に溺れきって「患者の命を救う」という本来の責務が二の次という、どうしようもない連中がいるのも同じくあるあるだと思っている。だが本作ではその振り幅がより凄い(←)。現実ではそんなことないと思っても(というか信じたい)、「こんな連中がいなかったら日本の医学はもっと飛躍的に進歩しているのに…」とボヤいてしまうほどには強烈な嫌悪感を抱く登場人物が結構いるのだ。
主人公の当麻はフラットに見たとしても、人間性も医者としての技術も申し分ない存在である。なのに、前述の連中のせいで主人公がより完成された人間に見えてしまう。物語は対比の構図があるとより魅力的というのはよく聞くけど、医療版の対比の構図はこうなっているのか…
手に汗握るオペの臨場感
本作品を振り返ってみると、体感で全体の半分くらいは医療現場の話である。その合間には当麻の家族の話であったり、主人公の少々浮いた話であったりと、漫画やアニメでいう日常回みたいなものもちらほら存在している。だが個人的には、あくまで医療現場のシーンがモリモリであることが嬉しかった。
自分が小説を読む時にいつも楽しみにするのは、ビジュアライズしないとどうしても表現が難しそうな内容を、いかに作者が文章で表現しているか、ということである。医療がテーマならばオペのシーンを存分に楽しみたいし、音楽がテーマならばピアノをはじめとした演奏シーンを楽しみたい。テニヌがテーマならば波動球や燕返しがふんだんに使われる試合シーンを楽しみたいのだ(人間関係の泥臭さみたいな内容は山崎豊子氏にまかせておけば良い)。それが本作品では存分に発揮されていた。
そしてなんといっても本作品のテーマの一部というのが、当時はタブーとされてきた整体肝移植である。前人未到の領域であるということも相まって、オペが成功するかどうか全く分からないため、スリルが桁違いなのだ。
というか、そもそも自分はなぜ医療小説(ドラマ)に惹かれるのだろうと思っていた。だが、それは自分が生きている上ではなかなか深堀ることのできない「死」というテーマに対して、医療現場の人間目線で考えることができるからだということを再認識させられた(おそらく現場はもっと複雑なのだろうけど)。
自分にとって死は一度しかやってこないのだから、考え方によっては死は自分にとって最も非日常の出来事である。そして恐らく、潜在的に最も恐れている出来事でもある。そういう意味では、ある種の怖いもの見たさも手伝って、医療小説に惹かれている節もあるのかもしれない。
はたして「『死』は希望」なのか
作中で実施される国内でほぼ初めての生体肝移植。その一発目において、移植そのものは成功した。ところがその後様態が悪化し、残念ながら患者は命を落とすことになった。その時に真っ先に自分が思い出したのは、リーガルハイに登場する「死は希望」というメッセージである。
リーガルハイの作中においても、医療ミスにより命を落とした患者がいる。そしてその患者の遺族が医師を訴え、法廷の場で是非を問う場面があった。その過程で一部議論となったのは「医は科学か?」ということだ。
医は科学と同様、先代の積み上げてきた研究の結果で成り立っており、今日において我々はその恩恵を受けている。しかしその過程を振り返ると、当然ながら数多くの犠牲を払っている。他の科学の分野では、研究に用いるサンプルというのは化合物をはじめとした無生物であることも多いだろう。だが医学の場合はサンプルの対象がラットやサル等の生物を扱うことが頻繁にある。もちろん見方によれば、時には人間にだっておよぶこともあるだろう。
我々は医学の進歩のためには前述のような犠牲は仕方がないと思っている。それは犠牲によってさらに進歩した医学の恩恵を受けたいからである。でも、もしもその犠牲が自分のよく知っている人間だったら?親しい家族やとても仲の良い友人だったら?はたして「進歩のためだから」「犠牲はつきものだから」と思うことができるだろうか?「話が違うじゃないか」と激昂してしまうのではないだろうか?(語弊を恐れず言えば)そんな頻発する手のひら返しに言及しているのがリーガルハイという作品なのだ。そして生体肝移植という当時では前人未到のテーマを扱う本書においても、同じようなことが当てはまるのではないかと思った。本作品において患者の家族は理解を示してくれて本当に良かったと思っている。
医は仁術?
孤高のメスとリーガルハイの内容をふまえて個人的に大事だなと思ったのは、「医学」と「医療」を混同してはいけないということだ。ただし、少なくとも今の時代では、である。「医学」は人体の病気の本態を研究して健康を維持するための学問だ。一方で「医療」は、医術や医薬を用いて病気や怪我を治すことである。医学が学問の範疇であるのに対し、医療は患者に対して行う行動やサービスの意味合いが強い。そのため、人間性がより求められるのも医療の方だろう。人間が同じ人間に対して医術を施すのだから倫理観もなくてはならないし、対象をただのサンプルやデータとして見ることは医療の観点ではあってはならない。「医は仁術」という言葉があるのもそのためだろう。この前提を踏まえて、リーガルハイを引き合いに出して前述した内容は、あくまで医学の話である。しかし本書にてフォーカスされているのは医療だ。この手の議論になると、そのふたつを一緒くたにして考えてしまうケースが往々にしてあると思うのだ(で、それが認識のねじれの原因となり争いの原因となる)。
だが、この医学と医療という言葉を混同する/しないの議論もゆくゆくはどうでもよくなっていくのではないかとも思っている。それは個人的に、医療分野も機械に置き換わって完全自動化する未来が来てもおかしくないと考えているからだ。本書の前身が創刊されたのは1989年のことだ。そこから約35年が経過した今でも、当時に比べれば医療の機械化・省人化はだいぶ進んでいる。そしてその機械化のスピードというのは徐々に加速している。そんな自動化した将来の医療においては、おそらく患者に対しても感情を排除してより機械的になっていて、ひたすら効率を求めるようになっているだろう。そんな時代においては、「医は仁術」という言葉すら淘汰されているのかも知れない。未来の人間が本作品を読んだら「えっ、こんな機械でも難しいことを全部人の手でやってたの!?」と驚くこと間違いなしである。
終わりに
「白い巨塔が自分の中で一番!」と豪語しておいて、追加で医療小説を読むたびに揺らぎまくっている気がする。それだけ医療をテーマにした小説というのは一貫して面白いということだと思っている。医療小説はこの世にどれほどあるのだろうか。自分が歳を取って病院にお世話になりっぱなしの身体になる前に、できるだけたくさんの作品に触れておきたいものだが。
それでは。