エフゲニー・キーシンのピアノ

 今までの人生において、クラシック音楽で一番聞いてきたのはキーシンのピアノかもしれない。中学時代に友人とキーシンの存在を知り、「この世にこんな超絶技巧を簡単そうに弾きこなす超人がいるのか」とドハマりした。そこからキーシンの演奏を聞き続けて、生の演奏を聞くことが叶ったのは4年前(しかもありがたいことにサントリーホール…!!)。濃密で引き締まりつつ、息をするのも忘れてしまうほどの洗練された音色。時にはびっくりするくらいの強音を出すほどの指の力。そしておなじみの(?)人間離れした超絶技巧。CDで幾度となく聞いてきたが、どれも録音を遥かに凌駕していた。会場で聞いた当時、彼は紛れもない天才だと思った。しかしなぜだかわからないのだが、その時ふと同時に「この人のような天才でも、妥協するようなことなんてあるのかな」とも考えた。

 1998年に遡るが、「音楽の贈り物」というドキュメンタリーでキーシンにフォーカスした回があった。個人的に伝説とも思える、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートの収録もあり、既にかれの黄金期とも言うべき時代である。

そんな時代において、プログラムの最後には彼の持ち味を活かすリストの狂詩曲や超絶技巧練習曲、シューマンのトッカータなどを演奏していた。スリルもあって華やかな曲が多いので、聴衆はアンコールでも大満足だっただろう。しかし、キーシンは当時のこのプログラムについて以下のように語っていた。

僕はこうした(超絶技巧練習曲やトッカータ)曲が特に好きでも嫌いでもありませんでした。でも、その意図は好きではありませんでした。しかし、聞き手の好みを無視すべきでないと思いました。音楽家としての理想の追求をするべきでないという意味ではありません。聞き手を楽しませないと、いつか彼らは去ってしまうのを忘れてはいけないのです

言われるまでもなく、芸術家はもちろん自分の理想を追い続けるのが本分だろう。しかし「世帯仏法腹念仏」とまではいかないが、芸術家たちも自分の作品やスキルが大衆に受け入れられ、売れないと生活が成り立たなくなるのも事実である。その枷によって、いくらかの妥協を余儀なくされてしまうのだ。

自分は、本来音楽や絵画は突き詰めれば詰めるほど、常人には理解しがたいものになるんじゃないかと考えている。スキルも感性もあまり持ち合わせていない常人は、プロと同じ目線に立つことは難しいと思うからだ。また、そのように1つの作品に打ち込む際、当人の感性を100%、もしくは120%活かさないと理想の追求は難しいのかもしれない。

そんな天才たちが、わざわざ常人のレベルまで落として60~70%(もしくはそれ以下)程度の力を出し続けていると、本来持っている尖ったセンスや才能が徐々に丸くなっていくのではないかという懸念がある。芸術家たちにはどこまでも我が道を行ってほしいのだが、いつまでもそんなジレンマにとらわれているのは、正直もったいないと考えてしまうのだ。それに、キーシン等のアーティストに至っては、なにもお客さんに合わせずに奔放なパフォーマンスをしたところで、結局根っからのファンはそのままついていってしまうと思うのだ。

終わりに

多少の妥協はあれど、しっかりと割り切り、エンタメ性を持ち込んでお客さんを楽しませてくれるキーシンの演奏がやはり好きだ。ちなみに4年前のコンサートでのアンコールはこちら。

超絶技巧がなくとも、キーシンの漲るパワーと音楽性を堪能するには十分な演目であった(英雄ポロネーズが難しくないなんて微塵も思わないが笑)。そんな彼も今や半世紀を生きて、これから徐々にいい意味で脂が乗ってくる時期であると非常に楽しみにしている。自分がいったコンサートも忘れないだろうし、これから一生彼のピアノを楽しんでいくだろう。


それでは。

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