「この人賢いな」と思う瞬間はいつなのだろう。人によっては相手の意見や考えをすぐに理解できたり、大量の知識を持っていたり、難しい事柄をわかりやすく説明できたりする人がそうだと感じるかもしれない。しかし個人的には、語彙力を持つ人もそれにあたると思っている。
本を読むことでしか知り得ないようなボキャブラリーを持っていたり、さりげなく上手い言い回しを聞いたりすると、自分はその人に対する教養の信頼度が簡単に、かつ大幅に上がってしまう。普段から語彙力を重んじている齋藤先生の本書は、語彙力を持つことの重要性およびその磨き方について、簡潔にまとめられている。
読んだ本
- タイトル:語彙力こそが教養である
- 著者:斎藤孝
感想云々
日本語は語彙の多い言語
「語彙」とは「語句の集まり」という意味である。文字通りの意味合いであるが、「語彙力」は「どれだけ多くの日本語を知っているか」を測る言葉として存在している。そして、その日本語の90%を理解するために必要な語彙力は約1万語と言われている。これは多いのだろうか?
多言語で同様に必要な語彙力を比較してみると、英語では約3000語、スペイン語やフランス語は2000語に満たないそうだ。これだけ見ても、日本語の語彙の豊富さは理解できるだろう。そして、その語彙力が今や減衰状態にあることを著者は問題提起しているのだ。
なぜ語彙力は低下したのか?
語彙力の低下の原因は、ひとえに素読文化の減衰であるというのが筆者の主張だ。素読とは、本文の意味・内容を吟味する前にとりあえず音読することである。なじみがないかもしれないが、かつて日本では当たり前のように素読文化があった。寺子屋で「論語」を読み上げることもそうだし、夏目漱石などご存知の文豪も素読の世代を生きた人である。
本来は語彙力を身につけるならば、その言葉が含まれる文章を丸ごと覚えてしまったほうが簡単であり、かつ誤用も少ない。その文化がなくなってしまったことにより、語彙力の低下が著しくなってしまったのだ(自分の学生時代を振り返ってみても、素読の経験はほとんどなかったな、と思う)。
「語彙力が足りない」とはどういう状況か
具体的に語彙力が足りないというのはどんなケースなのだろうか。本書では以下の3つが挙げられている。
- 音で聞いた時、感じが思い浮かばない
- 積極的に使うのが不安&間違えて使う
- 難易度が高い文章への拒否感
言われてみれば確かにそうかなと思う項目ばかりだろう。自分はその中でも特に2番目の積極性については、昨今加速していると感じる。それは語彙力の低下に伴い、予防線を張ってしまうケースが多く見られるようになったからだ。
広まりつつある予防線の文化
日常生活には様々な言葉の予防線にまつわる病が蔓延っている。たとえば「三点リーダー症候群」。これは語尾に「…」をつけ、表現をぼかしてしまいがちな人のことを指す。ちなみに自分もしっかりそうである。それによって自分で決断することを避け、責任を逃れたり、相手に判断を委ねたりする効果があるようだ。「小並感」もそうだし、学会で何故か教授陣が発する「素人質問で申し訳ないのですが…」もそのひとつだろう(自分はこれが最も悪質な症例だと思っている)。
その中でも近年とりわけSNSでよく目にするのは、文末に「(語彙力)」と付け足すこと。適切な表現が思いつかなかったり、文章が稚拙になってしまうと、語尾に付けてしまう傾向があるようだ。自分はこの予防線の文化が語彙力の衰退を加速させる原因のひとつになってしまっていると考えている(セルフハンディキャッピングという専門用語がある)。SNSが普及し、かつ「出る杭は打たれる」文化が根強い日本だと、なおこの傾向が強いのではないだろうか。
語彙力を鍛えるには?
「語彙力のインプットならば、本を読むしかないじゃないか」と第一に思うかもしれない。自分もそうだった。しかし今ではありがたいことに、語彙をインプットする機会はたくさんある。本書ではそんなインプットのノウハウが列挙されており、(すべては挙げないが)新鮮だったのは以下の2つだ。
- Amazonレビューを見る
これは意外に感じるかもしれないが、ネット上のレビューは実は語彙の宝庫なのだ。レビューは、大きな情報がわかりやすくまとめられており、主観と客観がバランスよく含まれている。購入を迷っている人に対し、巧みな文章でそっと後押しする。レビューにはそんな魅力的な文章が少なからず存在している。同様の商品に対する感想なのに、価値観や表現が十人十色なレビューは「ものの見方」として非常に有効なのだ。 - ドラマの脚本を見る
ドラマは俳優に注目してしまいがちだが、魅力的な脚本がいくつもある。これに関しては「リーガル・ハイ」をイメージしてもらうとわかりやすいのではないかと思う。某ドラマは、主人公の性格上(←)クセの強いマイナス発言が絶えない(見る分には痛快で気持ちいいのだが)。しかしボキャブラリーの多さも手伝って、それらの罵詈雑言さえも逆にユーモアや知性を感じさせてしまうのである。情報量の多いドラマは、語彙を身につけるうえでは最高の教科書になりうるのだ。
今や語彙のインプット方法は本に限らない。普段触れているメディアの数々も、使い方さえ誤らなければ最強のインプットツールになるだろう。語彙をインプットしたうえで、どのように訓練してアウトプットにつなげたら良いか、という内容に関しては、機会があれば別の記事で書いてみたいと思う。
終わりに
語彙のインプット/アウトプットは一朝一夕でできることではないし、アウトプットのタイミングだって十分に気をつけなければならない。「未曾有」が読めないとひどい非難が待っているからだ。しかし日本語という複雑な言語を扱う国にいる以上、おそらく語彙力と向き合うことは避けられないだろう。せめて卑屈の意味で使うのではなくて、普段使わないような言い回しを披露して得意げに「(語彙力)」と結んでみたいものだ。
それでは。